人と会話する時は、ほとんどつまらない内容に終始する。
「今日は晴れた」「曇ってる」「腰が痛くて」…どうでもいい。
でも、顔見知りには潤滑油として仕方なくしゃべるか…。
19世紀のフランスでは、貴族がサロンで活躍することに精魂を傾けた。
サロンで交わされた会話は、研ぎ澄まされたエスプリと諧謔に彩られた。
生半可な知性では気の利いた会話はできず、サロンに招待されることもなかった。
ピアニストとして今も王者であるフランツ=リストも、サロンでデビューした。
当時はピアノコンクールのようなものはなかったから、そこで認められるしかない。
もちろん、神のような彼のピアノ演奏にも、やんごとなき女性たちは夢中になった。
でも、彼の魅力はピアノの圧倒的な演奏や端麗な容姿だけではなかった。
彼は学校には行かなかったが、デビューする前に多くの書物を読破した。
それが、サロンに侍る女性たちとのウィットに富んだ会話を可能にしたのだろう。
ウィットとは、状況に応じてとっさに気の利いたことを言う才能を表わす。
ユーモアとは中身が少し違って、機知・機転・才知とも訳される。
フランス語のエスプリも同じ意味で、一休さんのとんちも同じような意味だ。
今も欧米では、大金持ちや限られた人たちだけのサロンがあるのかもしれない。
日本でも、成金たちの会員限定のクラブが多分あるのだろう。
でも、そこに19世紀パリのサロンにあったような会話があるとは、到底思えない。
今は、東大出身者たちの仲間内でも、ウィットに富んだ知性的な会話はないだろう。
何故なら、彼らは受験勉強のために限定された知識を詰め込んできただけだからだ。
研究者となっても、重箱の隅をつつくようなとても狭い世界で生きているだけだ。
おまけに、今アメリカでは”反知性主義”の嵐が吹き荒れ、大きな勢力となっている。
プロレス好きの大統領が、ハーバード等の世界に冠たる大学をいびり倒す時代だ。
Co2の増加が地球温暖化を引き起こすことも認めず、石油をもっと掘れと叫んでいる。
身近な自分たちを振り返れば、自分の知性を出すことに、非常に慎重になっている。
「知識をひけらかす」「高学歴を自慢している」等と思われる事を大いに怖れている。
だから、知っていても知らない振りをし、必要以上に無知で無害な姿を演じている。
鋭い知性の持ち主も爪を隠し、敢えてバカになったり野蛮に振る舞ったりしている。
これじゃ、庶民の中でウィットに富んだ会話が出てくるというのは全く望めないね。
無難にプロ野球の話とか、株の話とか、全くしたくないような話をしなくてはね。
今から68年も前に、社会評論家の大矢壮一が『一億総白痴化』という言葉を作った。
「テレビばかり見ていると人間の想像力や思考力を低下させる」という意味だった。
今はウィットに富む会話どころか、賢い人でもバカを演じなければ生きていけない。



